
❓FAQ
よく聞かれるご質問にお答えします。
FAQ1 社名"kibi"の由来は何ですか?
【秘密1】
人間や人情の「機微」が由来です。
1874年に東京警視庁を創設した川路利良は、
『警察手眼』にて「探索心得(捜査の心得)」を
「声なきに聞き、形なきに見る」と表現しています。
私は「捜査とは身体知を発揮して、
声なき人の声を聞き、姿形の見えない証拠を探し求めるように、
無声無形であっても感覚を研ぎ澄ませるべきである」と解釈しています。
私は「探索心得」に倣って、
自分が設立した会社を「kibi(機微)」と名付けました。
辞書によると機微とは
「表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情」と書かれています。
kibiは、
「姿なき姿」 や「声なき声」 など
人の心の微細な動きを「機微情報」として推察します。
※参考
「声なきに聞き、形なきに見る」
探索心得『警察手眼』川路利良=著
👇
原典はおそらく2冊の中国古典です。
1 『礼記(らいき)』<曲礼上>戴聖=編
前漢の時代、儒家の教えを編纂した中国古典五経の一。
「听于无声,视于无形」
「声なきに聞き、形なきに見る」
2 『淮南子(えなんじ)』<卷十七 說林訓>劉安=編
前漢の時代、道家を中心に諸家の思想を取り入れた哲学書。
「视于无形,则得其所见矣;听于无声,则得其所闻矣」
「形のないものを見ていると、見えたものが手に入り。聞こえない声を聞いていると、聞こえたものが手に入る」
FAQ2 どんな研修、講演ですか?
【秘密2】
『仕事の交渉力がアップする7つの聴取術』
『元刑事が見た発達障害 人間を深く知る3つの秘話』
『社員が防ぐ不正と犯罪 元刑事が明かす人情の機微に触れる事件簿』
『【独自】●●講師の挑戦ストーリー 180分!学修デザイナー養成講座』
『元刑事が見た発達障害 当事者と家族が巻き込まれる犯罪の手口と対策』
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FAQ3 なぜ教育の仕事を始めたのですか?
【秘密3】
警察官のとき、
部下や同僚から
「教えるのが上手い」と言われることがありました。
上司の刑事課長には断ったのですが、
署長と直談判したうえ警察学校助教専科派遣を命じられました。
刑事として現場にいたかったので、
学校勤務はずっと断り続けていました。
一方、
警察学校の刑事任用科や
関東管区警察学校の警部補任用科刑事課程は、
現場対応訓練、制圧訓練、人質立てこもり事件説得交渉訓練、
捜索差押え訓練、誘拐訓練、捜査書類作成訓練、捜査実務ゼミなど
非常に刺激的な毎日で、刑事教官たちから学んだこの時の体験は、私の教育観を180度、変えました。
2013年に警察を辞めた後、
どんな仕事をすれば良いのかよくわかりませんでした。
とりあえず、
深夜のコンビニや飲食店でアルバイトをしました。
アルバイトを続けながら、
大学生の時に家庭教師や塾の講師をしていたことを思い出し、講師として働きはじめました。
刑事として人とコミュニケーションを取る中で、
人の資質や恨み・辛み、真の課題を見究めることを心掛けていたので、
塾や予備校の講師として生徒さんたちと対等な立場で交流ができました。
その後、
FAQ6にあるとおり、
特別支援教育の現場で発達障害の支援をしました。
今では、
キッズダンスから企業研修まで手がけています。
最近になってようやく、
教育の仕事は自分に向いているのだと思えるようになりました。
FAQ4 なぜ警察を辞めたのですか?
【秘密4】
2025年3月20日
警察官やめたch出演【警察官辞めました】
警部補で警視庁を辞めた男の警察官人生が壮絶だった。
早稲田→警視庁→知能犯捜査係(視聴23万回、高評価3,957件、コメント1,382件)
https://youtu.be/bZHFKdnnI2w?si=FPPMBRjAqqFGUbs7
組織の不正を糺すためでした。
2013年1月31日、警視庁を辞職しました。
パワハラで悪名高い署長を更迭させるためでした。
2011年10月3日、私は麻布警察署刑事課知能犯捜査係主任(巡査部長)から
荏原警察署地域課地域第2係パトカー担当係長(警部補)として昇任配置されました。
2011年10月6日の夕方、荏原署に来て最初の当番(宿直)勤務で、麻薬密売人を職質検挙して、警視総監賞を受賞しました。
職質を振り切って逃げる不審者を駆け足で約300メートル追跡し、
暴れる男に幹線道路のど真ん中で追い付き、本人の同意を得て所持品検査したところ、
覚せい剤(4.5g)、乾燥大麻(5.7g)、大麻樹脂(8g)、コカイン(2.6g)、MDMA(9錠)を所持していたので、予試験の結果、現行犯逮捕しました。
覚せい剤・大麻の営利所持、
覚せい剤使用、密入国の罪でした。
荏原署でも当然、刑事課に入るつもりでしたが、
副署長以下、署内の策略に「嵌められ」て、2012年3月30日、警務課犯罪抑止対策係長になりました。
ある時、
当時の同僚が
そっと教えてくれたのです。
「榎本係長は嵌められたんですよ」
私は騙されたことに激怒して、
副署長に「嵌められたってどういうことですか?ずっと刑事ができないなら、警部補になる意味はなかった。署長に直訴します」と言いました。
署長の恫喝に恐怖していた副署長は、
「榎本、それだけは勘弁してくれ」と私に懇願しました。
警視庁幹部の不甲斐なさに呆れた私は、
本部の人事一課に内部通報することを決めました。
捜査から干された私は、
署長の各課管理職に対する恫喝があまりにも酷く、
管理職だけでなく、私の部下も健康を害していたので、
人事一課に職場の不正を糺すよう2回、内部通報、更迭請求しました。
当時、
私の怒りは非常に激しく、
常に顔面が痙攣していました。
練馬区の自宅から品川区の荏原署まで電動自転車で出勤していたのは、
怒りのエネルギーを発散しないと何かを壊してしまいそうだったからです。
汗をかき、
通勤途中に見る目黒川が唯一の救いでした。
多忙な麻布署刑事課では
祖父の葬式に出るため休暇を取ることができましたが、
はるかに暇だった荏原署警務課では祖母の葬式に出ることが許可されませんでした。
これも一つの原因でした。
人事一課に2回も内部通報したにも関わらず、
職場の不正は一向に改善されなかったので、辞職を決めました。
私が辞職する2日前、
署長は急きょ、更迭されていました。
「榎本、ありがとう。ありがとう!」
副署長は両手で私の手を握り、何度もお礼を言いました。
2013年1月31日、
顔も知らない新しい署長から
今までもらったどの辞令や賞状よりも薄い
ぺらっぺらの辞職辞令をもらい、私はひとり警視庁を去りました。
その後
当時の幹部や同僚は
警視庁本部に栄転するなど、
劣悪なパワハラ環境を斟酌され、
人事面で優遇措置を受けたみたいです。
私の辞職によって、
ようやくパワハラから解放された副署長は、
署長が更迭されて間もなく、本部の理事官になり、
荏原署よりはるかに大きいA署(署員数の多い大規模署)の署長になりました。
人間万事塞翁が馬。
辞職した後に自分のライフサイクルを12年周期で見ると、
実は約12年前の2000年3月に大学院を辞めていたことに気付きました。
2000年と2012年は、
私にとって破壊の年でした。
辞めるべきタイミング、
何かを破壊し、何かを創造するタイミングだったのだと思いました。
次のステージへ行くために、
古い自分を破壊して、新たな自分に生まれ変わる必要があったのです。
警察から
教育の世界へ
新たな一歩を踏み出しました。
FAQ5 警察官、刑事になるまでのキャリアはどのようなものでしたか?
【秘密5】
私は運動が苦手です。
スポーツ科学科へ行き、
武術とダンスをやって、警察官になりました。
苦手を克服したい人生を歩みました。
小学生の夢は小説家
中学生の夢はクリエイター
高校生の夢は鍼灸あん摩師
大学生の夢はスポーツ工学研究者
フリーターの夢はダンサーでした。
「ずっとやりたかったことをやりなさい」
教員や警察官になりたいと思ったことはありませんでした。
<小学生>
小学生のときは、
松山か尾道のような街に住んで、
昼は郵便配達員をしながら、夜は小説を書きたいと思っていました。
自宅に父のコンピュータがあったので、
『こんにちはマイコン』すがやみつる =著(小学館)
を読んで、BASICでゲームを作っていました。
2021年に
『まんが版 こんにちはPython』すがやみつる=著(日経BP)
を読んで、Pythonでラケットゲームを作りました。
母親が病気になり
手術前に小学校を休んで『南極物語』を観に行きました。
1983年、
『戦場のメリークリスマス』も公開された年でした。
高校生頃になって、
母が子宮がんだったと聞きました。
当時は母親の病気については何も知らされていなかったので、
なぜ学校を休んで映画を観に行くのかよくわかりませんでした。
手術後、
徐々に回復した母親の影響で
子どもの頃から東洋医学、漢方や鍼灸、経絡に関心を持ちました。
母親が
抗がん剤の副作用で
深夜に嘔吐する姿をよく見ていたからです。
別冊宝島を愛読し、
『もっとしなやかに生きるための 東洋体育の本』津村喬=著(JICC出版局)
をはじめとして、自然な生き方に関する本・潜在能力開発の本・精神世界の本・幻想世界の本などを購読していました。
<中学生>
1988年4月、
中学1年生のとき
清風コンビの人気に影響されて器械体操部に入りました。
骨折や肉離れなどの受傷事故が多く、1年生で退部しました。
『拳児』松田隆智+藤原芳秀=著(小学館)
という功夫(カンフー)漫画を読んで、夜の公園で突きの練習をしていました。
『[自然農法]わら一本の革命』福岡正信=著( 春秋社)
を手にして、家族がドライブに出掛ける際、父に頼んで、
地元愛媛の農学者、福岡正信さんのご自宅付近まで訪ねて行きました。
しかし父から「変わった人らしいよ」と聞いて、
少し怖くなって、結局はご自宅付近まで行っただけで、引き返しました。
父はその後、私が大学で東京へ出た後に福岡正信さん宅を訪ねて、お話を聞いたそうです。
ファミコンで
「ファイナル・ファンタジー」などの
ロールプレイングゲームを寝不足、頭痛、
近視になり、鼻血が出るほど夢中になってプレイしていました。
ファイナル・ファンタジーはⅠからⅣまで、かなりやり込みました。
中学生のときは、
ゲームや小説、アニメ、映画などを作る
マルチメディアクリエイターになりたかったです。
大貫妙子さんのFM東京「仮想熱帯」が好きでした。
中学生のときに観た清水ミチコさんの教育テレビ「まんがで読む古典」が好きでした。
高校受験が近づき、
のんびりと通信制に進学しようと考えていたのですが、
学校と親が賛成しなかったので、愛媛県立松山北高校を受験することにしました。
英語が苦手で高校受験に失敗しそうなので、受験を機にゲームを辞めました。
今度は寝不足で鼻血が出るまで受験勉強に励みました。
<高校生>
1991年4月、
辛くも松山北高校に合格しました。
手応えがあまりなかったので
合格発表を見に行かなかったのですが、
同じ高校を受験した友人から私も合格したと聞き、驚き、喜びました。
それ以来、
中学までは苦手だった英語が、
高校では一番、得意になるほど真面目に取り組みました。
高校生のときは、
古文と漢文の授業が好きでした。
中学の漢文は儒教の論語的な思想が窮屈でしたが、
高校の漢文で道教の悠々自適な思想を知ってホッとしました。
高校では帰宅部でした。
教育テレビの絵本の番組を観るのが好きでした。
月刊『秘伝』を購読し、
甲野善紀先生や黒田鉄山先生の著書を買い漁り、貪るように読んでいました。
高校三年生のとき、進路を考えました。
鍼灸師になりたいと思い、
専門学校へ進学を考えたのですが、学校と親が賛成しませんでした。
当時はまだ大学で鍼灸を学べるところがなかったと思います。
自分自身は運動やスポーツが不得意だったので、
どうすれば得意になるか、その研究をしたいと思いました。
当時、
教育学部体育学科ではなく、
人間科学部スポーツ科学科のような専攻を持つ大学は少なく、
候補の一つとして早稲田大学人間科学部の資料を郵送で入手しました。
資料を読んで、
スポーツ生理学やバイオメカニクスの研究をしていた先生がいたのでスポーツ科学科に決めました。
ちなみに筑波大学体育専門学群は実技試験があり、
運動が苦手だった私にはとても無理だと思い受験しませんでした。
受験したのは、
高校が国立文系コースだったので、
地元の愛媛大学法文学部、試験慣れするための関西大学総合情報学部、
そして、本命の早稲田大学人間科学部スポーツ科学科の3つだけでした。
愛媛大学と早稲田大学は合格し、関西大学は不合格でした。
<大学生>
1994年4月、
早稲田大学人間科学部へ進学しました。
SONY創業者の井深大さん寄附講座
『東洋医学の人間科学』があったことも進学の決め手でした。
当時のコーディネーターは春木豊先生で、
土曜日にヨガ、鍼灸、漢方、気功などの授業があったことを覚えています。
これが、
2021年のソマティック心理学協会との出会いに繋がり、
2021年10月10日、ソマティック心理学協会早稲田大会の
パネルディスカッション「身体知の実践」にパネリストとして参加することになりました。
https://www.kibiinc.co/blog/2021-10-11
大学進学後は、
ときどき西荻窪のほびっと村というところに出掛けていました。
カウンターカルチャーの先駆けとして、
オルタナティブな生き方を模索する人たちがボディワークを学ぶスクールでした。
2021年7月から縁あって、
毎週土曜日に西荻窪のヨガスタジオで小学生にダンスを教えています。
古流武術を学びたくて、
甲野善紀先生の松聲館や黒田鉄山先生の振武舘に通いました。
大学一年生の時、
まだ入門前に道場の下見・実査のつもりだったので、
甲野善紀先生のご自宅・道場を覗きに出掛けて、不審な訪問者として甲野先生を驚かせてしまったこともありました。
大学二年生から大学三年生ころ、
黒田鉄山先生の道場に入門し、土日などに
東武野田線大和田駅から徒歩10分ほどにある大宮武道館へ稽古へ出掛けました。
大学では第2外国語として中国語を学びました。
中国語を学んだ理由は、
世界的に中国と中国語のインパクトが
大きくなりつつあったことと、日本にはない、より東洋的なものを求めていたことです。
大学1年生の春休みに
北京語言学院(現在の北京語言大学)に短期留学しました。
1995年、
大学2年生の夏休みはUCLAに短期留学しました。
UCLAに行く前はアメリカ人の友人実家である
ニュージャージーとボストンへ一人で旅行し、お家へ泊めてもらいました。
交換留学生として
アメリカ留学を目指していたのですが、
アメリカ短期留学中に遊び過ぎてTOEFLの点数が
交換留学生の応募要件に3点足りず、アメリカ留学は断念しました。
1996年4月、
大学3年生の時にスポーツ工学ゼミ(比企静雄先生)に進みました。
人間の運動機能と
感覚機能を研究する生体機能工学研究室でした。
箱根駅伝に出場する
競争部の走るフォームや
高齢者の歩く動作を研究したり、音声や表情の研究をしていました。
私は古流武術の動作解析をしようと考えていました。
この頃から
大学院に進学して研究者になろうと思うようになりました。
小中高の教員になるつもりはなかったので、教職は取りませんでした。
1996年9月から1997年8月の1年間、
中国の北京大学へ語学留学しました。
中国語を学ぶ以外に
気功や中国武術を学んでも良かったのですが、なぜかそういう気分になれませんでした。
各国の留学生仲間と
夜な夜な北京大学付近のBARや
大使館街にある高級ホテルのディスコで遊び回っていました。
その頃に気付いたのが、
外国語の習得よりも非言語や
身体を使ったコミュニケーションが非常に有効だということでした。
中国語があまり上手ではない留学生が、
彼らの得意なサッカーやダンスを通じて、
男女問わず仲間と打ち解けていたのを目の当たりにしたからでした。
その頃から、
武術ではなく、
ダンスに夢中になりました。
20歳の頃です。
帰国後、
ダンススクールに通うようになり、
髪にパーマをかけ、クラブ・カルチャーにどっぷりと浸かるようになりました。
1999年、
卒業論文は古流剣術の素振りをスティック・ピクチャで動作解析しました。
大学院にも進学しましたが、
修士課程1年生を終えて中途退学しました。
指導教授と性格が合わず、
研究方針を上手くコミュニケーションできなかったこと
20代のうちにダンスにしっかりと取り組もうと思ったことが理由でした。
<フリーター>
2000年3月に大学院を中退後、
日焼けサロン兼ダンススタジオでアルバイトを始めました。
そのスタジオのオーナーが昔、
ストリートダンスや芸能界で活躍していた人だったので、入門したのです。
当時の私は日焼けをして、
サングラスを掛け、アフロヘアーでした。
オーナーの本業が大工さんなので、
大工さんの手元(補助)もやりました。
大工さんの顔の表情や目線から
必要な道具を判断して、精密な動作を要求されたのですが、不器用な私にはとても務まりませんでした。
また、
当時の自分には
ダンスのセンスがあまりなかったようで、下手の横好きでした。
当時は家賃が2万円くらいで、
風呂なし・トイレ共同の4畳半くらいのアパートに住んでいました。
大工さんは朝早く、日焼けサロンは夜遅く、
お給料が私の記憶では月収4万円くらいと少なかったので、
寝不足と栄養不足で体調を壊し、精神的に追い込まれていました。
ある朝、
仕事に対する恐怖心から
出勤できなくなりました。
ダンスの世界は諦めて、
再起をかけて一度、就職することにしました。
とりあえず、
生活のために道路工事の警備員をやりました。
日勤と夜勤と両方入りました。
夜の道路工事はアスファルトの冷気が足の芯まで伝わって来て、
決して楽な仕事ではなかったのですが、当時はそれなりの日給がいただけたので、
大工さんと日焼けサロン兼ダンススタジオで働いていた頃の厳しさと比べると、耐えられました。
また警備員の暑さ・寒さを考えると、
その後に経験する警察官の暑さ・寒さは耐えられました。
警備員として仕事を始めて、
とりあえず生活ができるようになりました。
給料日に荻窪の警備会社へ出掛けて、荻窪駅前のCoCo壱でカレーを食べるのが楽しみでした。
大学生の頃から民間企業や就職活動には全く興味関心がありませんでした。
だから研究者になろうとしていたくらいでした。
当時は同年代の大学生が就職のために
資格試験の学校やマスコミ塾、アナウンス・スクール、
就活塾などへ通っているのが全く理解できませんでした。
大学受験が終わったのだから、
何かを学ぶのなら自分が本当に好きなことを
自分のペースで学んだり、研究したかったし、もう少しのんびりしたいと思っていました。
人と人とを分けて
差をつけることは馬鹿馬鹿しいし、
教育が「格差」を作っていると思っていました。
そこで、
民間企業ではなく公務員になろうと思いました。
公務員なら
企業に媚びた就職活動をする必要もなく、
堂々と採用試験を受ければ良いと考えたからです。
しかし、
普通の官公庁や区役所では、
自分は退屈してしまうと思いました。
研究者やダンサーとして挫折してしまったので、
今度こそは自分の能力をもっと限界まで鍛えたいと思いました。
そこで、
警察・消防・自衛隊を考えました。
最終的に警察を選んだ理由は次の4つです。
1 警備員と警察官の仕事は違うけれど、少し似ているところがあったから
2 消防と自衛隊は市井の人々と交流があまり多くないが、警察は交番やパトカーなど、もっと人と関わる仕事だから
3 学生時代に一度ご挨拶したゼミの先輩が中国語を使って福岡県警の国際捜査部門で働いており、自分も語学力を生かせると思ったから
4 大学で郷里を離れていた頃、実家で親族間のトラブルがあり、警察を呼ぶほどの喧嘩があったので、有事に即応できる自分になりたいと思ったから
警備員のアルバイトをしながら、
自宅で警察官採用試験の問題集を解き始めました。
警察官の採用試験は、警視庁・神奈川県警・埼玉県警・千葉県警を受けて、警視庁だけ合格しました。
神奈川と埼玉は一次試験で落ちて、
千葉県警は二次の面接試験まで進みましたが、
面接官に「好きな本は何ですか?」と質問されて、
「はい!絵本のからすたろうです!」と元気よく答えて、落ちました。
面接官の表情が「こいつ、大丈夫か?」と物語っていたのが印象的でした。
千葉県警の面接に落ちて学習した私は、
その後、警視庁の面接では「からすたろう」の話題は一切しないように充分、気を付けました。
警視庁の面接で印象に残っていたのは、
「なぜ中国に留学したのか?なぜ大学院を中退したのか?大学院を辞めた後に何をしていたのか?」でした。
私が早稲田出身なので、
極左活動家と疑われていたのかもしれません。
ちなみに、
この種の質問は、
私が警察官になった後、
巡査部長昇任試験でも、
警部補昇任試験でも繰り返し聞かれました。
<警察官>
2002年7月15日、
警視庁巡査として拝命しました。
警察学校(初任科)でとても記憶に残っているのは、
初めて「平日夜間に外出できる制度」ができて、すぐに学校付近を散策したことです。
平日の外出許可が出てから2週間くらい経っていたと思います。
毎晩、消灯・就寝前、川路広場に学生が集合して、
当直教官に点呼・人員報告をするのですが、点呼後、
解散前に当直教官から「○○教場の榎本くんいるか」と尋ねられました。
私が「はい!」と元気に答えると、
当直教官は「外出どうだった?外出できるようになってから、外に出たのはまだ君だけだ」と言いました。
私は堂々と
「楽しかったです!」と答えたのですが、正直、驚きました。
当時、
警視庁警察学校の学生は、
1,000人から2,000人くらいの間だったと思いますが、
なんと、まだ私1人しか外出をしていなかったのです。
私は警察官拝命が26歳、
卒業配置が27歳と他の同期の22、3歳と比べて遅かったので、
実は警察学校に入校した頃から巡査部長昇任試験の問題集を消灯後に解いていました。
法律の勉強をしたことが全くなかったので、
最初は全く理解不能でしたが、実務経験が進むにつれて、徐々に解けるようになりました。
この時の原体験が、
「必要なことは自ら求めて、学ぶ」姿勢に繋がりました。
2020年から
独学で司法試験の受験勉強をしています。
刑事になったきっかけは
2003年1月21日、卒業配置された板橋警察署で
交番勤務をしていた時に衆議院議員総選挙があり、
選挙違反取締本部のメンバーとして参加したことでした。
当時、
私が事件化の端緒を得たことで、
刑事課知能犯捜査係の係長に「お前、知能犯向いてるからやってみろよ」と言われて、初めて刑事の世界に興味を持ちました。
その係長に声を掛けられるまでは、
特に刑事に関心はありませんでした。
板橋署で刑事課に入りたかったのですが、
警察官になって一番最初の巡査部長昇任試験に合格しました。
私は2005年7月14日、
麻布警察署へ巡査部長として昇任配置となり、
刑事になるのは2006年10月31日、麻布署刑事課知能犯捜査係(主任)まで持ち越されました。
その後は2006年7月27日、
組織犯罪対策部長賞~MDMA被疑者職質検挙から2012年9月18日、
警視総監賞~麻薬密売人職質検挙まで6年あまりで警視総監賞4件、
刑事部長賞7件、組織犯罪対策部長賞3件受賞(個人賞)しました。
私は警視庁の水が合っていたのだと思います。
語学、スポーツ、武術、ダンス、警察、刑事事件、
法律など自分が苦手な世界に飛び込んで、自分の得意を探して来たように思います。
FAQ6 どのような経緯で発達障害の支援をしてきたのですか?
【秘密6】
この記事にも
詳しく書きました。
👇
元刑事が実践した
対人捜査・身体知・遵法教育
事件現場から支援現場へ臨んだ11年と9年の記録
https://www.kibiinc.co/blog/2024-7-21
2009年から2011年、
麻布署の刑事だった時、
アスペルガー障害の成人男性による名誉毀損事件を捜査しました。
被害者は、
発達障害に関する書籍の出版社(花風社)でした。
告訴相談の受理から裏付け捜査、
強制捜査、事件送致、ほとんどの捜査を私一人で担当した事件でした。
事件を受理した当時、
発達障害のことはほとんど知りませんでした。
専門家への事情聴取、
専門書の読み込み、裏付け捜査、
被疑者や参考人の取り調べなどを通じて、
徐々に専門的な知識や体験が蓄積されてきました。
被疑者は起訴され、
執行猶予付きの罰金刑を科されました。
2013年1月31日、
先ほどお話しした経緯で警察を辞職しました。
縁あって、
教育に関する仕事、
主に塾や予備校の講師を始めました。
練馬区に住んでいるので、
練馬区の学校サポーターに登録していました。
2017年3月、
練馬区光が丘第八小学校の副校長先生からお電話をいただき、
特別支援学級の支援員を半年間やらせてもらうことになりました。
横浜市にある
放課後等デイサービスでも
1年ほど非常勤の職員をして、理事も務めました。
2017年7月7日、
麻布署で発達障害の事件を担当したこと、
予備校の生徒さんが上智大学に進学したことが偶然、重なり合いました。
上智大学の
「メディア・対話・レトリック」という授業で
1コマだけゲストスピーカーをすることになったのです。
当時の私は
講師として
徐々に研修や
講演の仕事を増やそうとしていました。
書籍の出版を視野に入れて、
都内の出版社へFAXでDMを出しました。
1,000通FAXDMを出したうち、
無事に送信されたのが 、確か777通だったと思います。
2社からすぐにレスポンスをいただきました。
実は、
そのうち1社が、
私が担当した名誉毀損事件の被害者、花風社だったのです。
2017年8月頃、
横浜の放課後等デイサービスにて、
重度自閉症の男子小学生を約20日間支援しました。
その時、
花風社の本で学んだ身体アプローチが、
そのお子さんの水遊び・排泄・噛み付き・会話能力を劇的に改善してくれました。
何物にも変え難い貴重な経験でした。
刑事の経験と発達支援の経験から、
2018年1月31日には、
『元刑事が見た発達障害 真剣に共存を考える』榎本澄雄=著(花風社)
2018年10月23日には、
『自傷・他害・パニックは防げますか? 二人称のアプローチで解決しよう!』廣木道心+栗本啓司+榎本澄雄=著(花風社)
https://www.amazon.co.jp/~/e/B0798QLZ37
が出版されました。
身体知と遵法教育を提言しました。
2021年12月13日、
縁あって上智大学「司法福祉論」の授業で、
再びゲストスピーカーを務めることになりました。
https://www.kibiinc.co/blog/2021-12-04
その後も
ご縁は続いています。
👇
2022年4月4日 上智大学 FIND SOPHIA 「学ぼう!違法薬物」
https://findsophia.jp/videos/illegal-drugs/
2022年12月19日 東京新聞朝刊「こちら特報部」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/220763
追記…
先日、母方の祖父が福祉の仕事をしていたと母から初めて聞きました。
障害福祉、養子縁組、児童相談所などの仕事で登校拒否の子どもを支援していたそうです。
母の実家は祖母が切り盛りする商店で、祖父は戦争で中国から引き揚げて農業の傍ら、愛媛県庁で働いていました。

