• ❓FAQ大全(kibi 6つの秘密)

    よく聞かれるご質問にお答えします。 

     

    FAQ1 社名"kibi"の由来は何ですか?

    FAQ2 どんな研修、講演ですか?

    FAQ3 なぜ教育の仕事を始めたのですか?

    FAQ4 なぜ警察を辞めたのですか?

    FAQ5 警察官、刑事になるまでのキャリアはどのようなものでしたか?

    FAQ6 どのような経緯で発達障害の支援をしてきたのですか?

     

    答えは、今すぐこちらから。

    👇

    FAQ1 社名"kibi"の由来は何ですか?

    【秘密1】 

    人間や人情の「機微」が由来です。

     

    1874年に東京警視庁を創設した川路利良は、著書『警察手眼』の中で「探索心得(捜査の心得)」を「声なきに聞き、形なきに見る」と表現しています。私は「捜査とは身体知を発揮して、声なき人の声を聞き、姿形の見えない証拠を探し求めるように、無声無形であっても感覚を研ぎ澄ませるべきである」と解釈しています。

     

    私は「探索心得」に倣って、自分が設立した会社を「kibi(機微)」と名付けました。辞書によると機微とは「表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情」と書かれています。弊社kibiは、「姿なき姿」 や「声なき声」 など人の心の微細な動きを「機微情報」として、大事にしています。 

     

    ※参考

    「声なきに聞き、形なきに見る」

    探索心得『警察手眼』川路利良=著

     👇

    原典はおそらく2冊の中国古典です。

     

    1 『礼記(らいき)』<曲礼上>戴聖=編

    前漢の時代、儒家の教えを編纂した中国古典五経の一。

    「听于无声,视于无形」

    「声なきに聞き、形なきに見る」

     

    2 『淮南子(えなんじ)』<卷十七 說林訓>劉安=編

    前漢の時代、道家を中心に諸家の思想を取り入れた哲学書。

    「视于无形,则得其所见矣;听于无声,则得其所闻矣」

    「形のないものを見ていると、見えたものが手に入り。聞こえない声を聞いていると、聞こえたものが手に入る」

    FAQ2 どんな研修、講演ですか?

    【秘密2

    得意なテーマはコンプライアンス、クレーム、アクティブリスニング、身体知です。 

    ロールプレイングを交えた刺激的な講座進行を心がけています。 読書会のファシリテーターもしているので、ワークショップ、ファシリテーション形式が得意です。

     

    詳しくは、こちらをご覧ください。

    👇

    https://www.kibiinc.co/learn-more

     

    お問い合わせは、今すぐこちらから。

    👇

    FAQ3 なぜ教育の仕事を始めたのですか?

    【秘密3

    警察官のとき、部下や同僚から「教えるのが上手い」と言われることがありました。上司の刑事課長には断ったのですが、署長と直談判したうえ警察学校助教専科派遣を命じられました。

     

    私は刑事として現場にいたかったので、学校勤務は断り続けていました。一方、警察学校の刑事任用科や関東管区警察学校の警部補任用科刑事課程は、現場対応訓練、制圧訓練、人質立てこもり事件説得交渉訓練、捜索差押え訓練、誘拐訓練、捜査書類作成訓練、捜査実務ゼミなど非常に刺激的な毎日で、刑事教官たちから学んだこの時の体験は、私の教育観を180度、変えました。

     

    2013年に警察を辞めた後、どんな仕事をすれば良いのかよくわかりませんでした。とりあえず、深夜のコンビニや飲食店でアルバイトをしました。アルバイトを続けながら、大学生の時に家庭教師や塾の講師をしていたことを思い出し、講師として働きはじめました。

     

    刑事として人とコミュニケーションを取る中で、人の資質や恨み・辛み、真の課題を見究めることを心掛けていたので、塾や予備校の講師として生徒さんたちと対等な立場で交流ができました。

     

    その後、FAQ6にあるとおり、特別支援教育の現場で発達障害の支援をしました。

     

    今では、キッズダンスから企業研修まで手がけています。最近になってようやく、教育の仕事は自分に向いているのだと思えるようになりました。

    FAQ4 なぜ警察を辞めたのですか?

    【秘密4】 

    2013年1月31日、警視庁を辞職しました。パワハラで悪名高い署長を更迭させるためでした。

     

    2011年10月3日、私は麻布警察署刑事課知能犯捜査係主任(巡査部長)から荏原警察署地域課地域第2係パトカー担当係長(警部補)として昇任配置されました。2011年10月6日の夕方、荏原署に来て最初の当番(宿直)勤務で、麻薬密売人を職質検挙して、警視総監賞を受賞しました。

    https://www.kibiinc.co/insight

     

    職質を振り切って逃げる不審者を駆け足で約300メートル追跡し、暴れる男に幹線道路のど真ん中で追い付き、本人の同意を得て所持品検査したところ、覚せい剤(4.5g)、乾燥大麻(5.7g)、大麻樹脂(8g)、コカイン(2.6g)、MDMA(9錠)を所持していたので、予試験の結果、現行犯逮捕しました。覚せい剤・大麻の営利所持、覚せい剤使用、密入国の罪でした。

     

    荏原署でも当然、刑事課に入るつもりでしたが、副署長以下、署内の策略に嵌められて、2012年3月30日、警務課犯罪抑止対策係長になりました。捜査の仕事から干された私は、署長の各課管理職に対する恫喝があまりにも酷かったので、本部人事課に複数回、環境改善の申し入れをしましたが、聞き入れられなかったので、辞職を決意しました。

     

    (多忙な麻布署刑事課では祖父の葬式に出るため休暇を取れた。しかし、荏原署犯罪抑止対策では、祖母の葬式に出ることが許可されなかった)

     

    人間万事塞翁が馬。

     

    辞職した後に自分のライフサイクルを12年周期で見ると、実は約12年前の2000年3月に大学院を辞めていたことに気付きました。2000年と2012年は、私にとって破壊の年でした。

     

    辞めるべきタイミング、何かを破壊し、何かを創造するタイミングだったのだと思いました。次のステージへ行くために、古い自分を破壊して、新たな自分に生まれ変わる必要があったのです。 

     

    2013年1月31日、警察から教育の世界へ一歩を踏み出しました。

    FAQ5 警察官、刑事になるまでのキャリアはどのようなものでしたか?

    【秘密5】

    <小学生>

    母親の影響で子どもの頃から東洋医学、漢方や鍼灸、経絡に関心がありました。別冊宝島を愛読し、

    『もっとしなやかに生きるための 東洋体育の本』津村喬=著(JICC出版局)

    https://www.kibiinc.co/index3

    をはじめとして、自然な生き方に関する本・潜在能力開発の本・精神世界の本・幻想世界の本などを購読していました。

     

    自宅に父のコンピュータがあったので、

    『こんにちはマイコン』すがやみつる =著(小学館)

    を読んで、BASICでゲームを作っていました。2021年から

    『まんが版 こんにちはPython』すがやみつる=著(日経BP)

    https://www.kibiinc.co/index7

    を読んで、Pythonでゲームを作っています。

     

    <中学生>

    1988年4月、中学1年生のとき清風コンビの人気に影響されて器械体操部に入りました。骨折や肉離れなどの受傷事故が多く、1年生で退部しました。

     

    『拳児』松田隆智+藤原芳秀=著(小学館)

    という功夫(カンフー)漫画を読んで、夜の公園で突きの練習をしていました。

     

    『[自然農法]わら一本の革命』福岡正信=著( 春秋社)

    を手にして、家族がドライブに出掛ける際、父に頼んで、地元愛媛の農学者、福岡正信さんのご自宅付近まで訪ねて行きました。しかし父から「変わった人らしいよ」と聞いて、少し怖くなって、結局はご自宅付近まで行っただけで、引き返しました。父はその後、私が大学で東京へ出た後に福岡正信さん宅を訪ねて、お話を聞かせていただいたそうです。 

     

    ファミコンで「ファイナル・ファンタジー」などのロールプレイングゲームを寝不足、頭痛、近視になり、鼻血が出るほど夢中になってプレイしていました。

     

    高校受験が近づき、のんびりと通信制に進学しようと考えていたのですが、学校と親が賛成しなかったので、愛媛県立松山北高校を受験することにしました。英語が苦手で高校受験に失敗しそうなので、受験を機にゲームを辞めました。今度は寝不足で鼻血が出るまで受験勉強に励みました。

     

    <高校生>

    1991年4月、辛くも松山北高校に合格しました。手応えがあまりなかったので合格発表を見に行かなかったのですが、同じ高校を受験した友人から私も合格したと聞き、驚き、喜びました。それ以来、中学までは苦手だった英語が、高校では一番、得意になるほど真面目に取り組みました。

     

    高校では帰宅部でした。月刊『秘伝』を購読し、甲野善紀先生や黒田鉄山先生の著書を買い漁り、貪るように読んでいました。高校三年生のとき、進路を考えました。鍼灸師になりたいと思い専門学校へ進学を考えたのですが、学校と親が賛成しませんでした。当時はまだ大学で鍼灸を学べるところがなかったと思います。

     

    自分自身は運動やスポーツが不得意だったので、どうすれば得意になるか、その研究をしたいと思いました。当時、教育学部体育学科ではなく、人間科学部スポーツ科学科のような専攻を持つ大学は少なく、候補の一つとして早稲田大学人間科学部の資料を郵送で入手しました。資料を読んで、スポーツ生理学やバイオメカニクスの研究をしていた先生がいたのでスポーツ科学科に決めました。ちなみに筑波大学体育専門学群は実技試験があり、運動が苦手だった私にはとても無理だと思い受験しませんでした。

     

    受験したのは、高校が国立文系コースだったので、地元の愛媛大学法文学部、試験慣れするための関西大学総合情報学部、そして本命の早稲田大学人間科学部スポーツ科学科の3つだけでした。愛媛大学と早稲田大学は合格し、関西大学は不合格でした。

     

    <大学生>

    1994年4月、早稲田大学人間科学部へ進学しました。SONY創業者の井深大さん寄附講座『東洋医学の人間科学』があったことも進学の決め手でした。当時のコーディネーターは春木豊先生で、土曜日にヨガ、鍼灸、漢方、気功などの授業があったことを覚えています。これが、2021年のソマティック心理学協会との出会いに繋がり、2021年10月10日、ソマティック心理学協会早稲田大会のパネルディスカッション「身体知の実践」にパネラーとして参加することになりました。

    https://www.kibiinc.co/blog/2021-10-11

     

    大学進学後は、ときどき西荻窪のほびっと村というところに出掛けていました。カウンターカルチャーの先駆けとして、オルタナティブな生き方を模索する人たちがボディワークを学ぶスクールでした。2021年7月から縁あって、毎週土曜日に西荻窪のヨガスタジオで小学生にダンスを教えています。

     

    古流武術を学びたくて、甲野善紀先生の松聲館や黒田鉄山先生の振武舘に通いました。大学一年生の時、まだ入門前に道場の下見・実査のつもりだったので、甲野善紀先生のご自宅・道場を覗きに出掛けて、不審な訪問者として甲野先生を驚かせてしまったこともありました。大学二年生から大学三年生ころ、黒田鉄山先生の道場に入門し、土日などに東武野田線大和田駅から徒歩10分ほどにある大宮武道館へ稽古へ出掛けました。

     

    大学では第2外国語として中国語を学びました。中国語を学んだ理由は、世界的に中国と中国語のインパクトが大きくなりつつあったことと、日本にはないより東洋的なものを求めていたことです。大学1年生の春休みに北京語言学院(現在の北京語言大学)に短期留学しました。

     

    1995年、大学2年生の夏休みはUCLAに短期留学しました。UCLAに行く前はアメリカ人の友人実家であるニュージャージーとボストンへ一人で旅行し、お家へ泊めていただきました。交換留学生としてアメリカ留学を目指していたのですが、アメリカ短期留学中に遊び過ぎてTOEFLの点数が交換留学生の応募要件に3点足りず、アメリカ留学は断念しました。

     

    1996年4月、大学3年生の時にスポーツ工学ゼミ(比企静雄先生)に進みました。人間の運動機能と感覚機能を研究する生体機能工学研究室でした。箱根駅伝に出場する競争部の走るフォームや高齢者の歩く動作を研究したり、音声や表情の研究をしていました。私は古流武術の動作解析をしようと考えていました。この頃から大学院に進学して研究者になろうと思うようになりました。小中高の教員になるつもりはなかったので、教職は取りませんでした。

     

    1996年9月から1997年8月の1年間、中国の北京大学へ語学留学しました。中国語を学ぶ以外に気功や中国武術を学んでも良かったのですが、なぜかそういう気分になれませんでした。各国の留学生仲間と夜な夜な北京大学付近のBARや大使館街にある高級ホテルのディスコで遊び回っていました。

     

    その頃に気付いたのが、外国語の習得よりも非言語や身体を使ったコミュニケーションが非常に有効ということでした。中国語があまり上手ではない留学生が、彼らの得意なサッカーやダンスを通じて、男女問わず仲間と打ち解けていたのを目の当たりにしたからでした。その頃から、武術ではなく、ダンスに夢中になりました。20歳の頃です。帰国後、ダンススクールに通うようになり、髪にパーマをかけ、クラブ・カルチャーにどっぷりと浸かるようになりました。

     

    1999年、卒業論文は古流剣術の素振りをスティック・ピクチャで動作解析しました。大学院にも進学しましたが、修士課程1年生を終えて中途退学しました。指導教授と研究方針が上手く話し合えなかったことと、20代のうちにダンスにしっかりと取り組もうと思ったことが理由でした。

     

    <フリーター>

    2000年3月に大学院を中退後、日焼けサロン兼ダンススタジオでアルバイトを始めました。そのスタジオのオーナーが昔、ストリートダンスや芸能界で活躍していた人だったので、入門したのです。当時の私は日焼けをして、サングラスを掛け、アフロヘアーでした。

     

    オーナーの本業が大工さんなので、大工さんの手元(補助)もやりました。大工さんの顔の表情や目線から必要な道具を判断して、精密な動作を要求されたのですが、不器用な私にはとても務まりませんでした。また、当時の自分にはダンスのセンスがあまりなかったようで、下手の横好きでした。

     

    当時は家賃が2万円くらいで、風呂なし・トイレ共同の4畳半くらいのアパートに住んでいました。大工さんは朝早く、日焼けサロンは夜遅く、いただけるお給料が私の記憶では月収4万円くらいと少なかったので、寝不足と栄養不足で体調を壊し、精神的に追い込まれていました。

     

    ある朝、仕事に対する恐怖心から出勤できなくなりました。ダンスの世界は諦めて、再起をかけて一度、就職することにしました。

     

    とりあえず、生活のために道路工事の警備員をやりました。日勤と夜勤と両方入りました。夜の道路工事はアスファルトの冷気が足の芯まで伝わって来て、決して楽な仕事ではなかったのですが、当時はそれなりの日給がいただけたので、大工さんと日焼けサロン兼ダンススタジオで働いていた頃の厳しさと比べると、耐えられました。また警備員の暑さ・寒さを考えると、その後にやることになる警察官の暑さ・寒さは耐えられました。

     

    警備員として仕事を始めて、とりあえず生活ができるようになりました。給料日に荻窪の警備会社へ出掛けて、荻窪駅前のCoCo壱でカレーを食べるのが楽しみでした。

     

    大学生の頃から民間企業や就職活動には全く興味関心がありませんでした。だから研究者になろうとしていたくらいでした。当時の私は同年代の大学生が就職のために資格試験の学校やマスコミ塾、アナウンス・スクール、就活塾などへ通っているのが全く理解できませんでした。

     

    大学受験が終わったのだから、何かを学ぶのなら自分が本当に好きなことを自分のペースで学んだり、研究したかったし、もう少しのんびりしたいと思っていました。人と人とを分けて差をつけることは馬鹿馬鹿しいし、教育が「格差」を作っていると思っていました。

     

    そこで、民間企業ではなく公務員になろうと思いました。公務員なら企業に媚びた就職活動をする必要もなく、堂々と採用試験を受ければ良いと考えたからです。しかし、普通の官公庁や区役所では、自分は退屈してしまうと思いました。

     

    研究者やダンサーとして挫折してしまったので、今度こそは自分の能力をもっと限界まで鍛えたいと思いました。そこで、警察・消防・自衛隊を考えました。最終的に警察を選んだ理由は次の4つです。

     

    1 警備員と警察官の仕事は違うけれど、少し似ているところがあったから

     

    2 消防と自衛隊は市井の人々と交流があまり多くないが、警察は交番やパトカーなど、もっと人と関わる仕事だから

     

    3 学生時代に一度ご挨拶したゼミの先輩が中国語を使って福岡県警の国際捜査部門で働いており、自分も語学力を生かせると思ったから

     

    4 大学で郷里を離れていた頃、実家で親族間のトラブルがあり、警察を呼ぶほどの喧嘩があったので、有事に即応できる自分になりたいと思ったから

     

    警備員のアルバイトをしながら、自宅で警察官採用試験の問題集を解き始めました。警察官の採用試験は、警視庁・神奈川県警・埼玉県警・千葉県警を受けて、警視庁だけ合格しました。

     

    神奈川と埼玉は一次試験で落ちて、千葉県警は二次の面接試験まで進みましたが、面接官に「好きな本は何ですか?」と質問されて、「はい!絵本のからすたろうです!」と元気よく答えて、落ちました。面接官の表情が「こいつ、大丈夫か?」と物語っていたのが印象的でした。千葉県警の面接に落ちて学習した私は、その後、警視庁の面接では「からすたろう」の話題は一切しないように充分、気を付けました。

     

    警視庁の面接で印象に残っていたのは、「なぜ中国に留学したのか?なぜ大学院を中退したのか?大学院を辞めた後に何をしていたのか?」でした。私が早稲田出身なので、極左活動家と疑われていたのかもしれません。ちなみに、この種の質問は、私が警察官になった後、巡査部長昇任試験でも、警部補昇任試験でも繰り返し聞かれました。

     

    <警察官>

    2002年7月15日、警視庁巡査として拝命しました。その後は2006年7月27日、組織犯罪対策部長賞~MDMA被疑者職質検挙から2012年9月18日、警視総監賞~麻薬密売人職質検挙まで6年あまりで警視総監賞4件、刑事部長賞7件、組織犯罪対策部長賞3件受賞(全て、個人賞)しました。私は警視庁の水が合っていたのだと思います。

    https://www.kibiinc.co/insight

     

    刑事になったきっかけは2003年1月21日、卒業配置された板橋警察署で交番勤務をしていた時に衆議院議員総選挙があり、選挙違反取締本部に吸い上げられたことでした。当時、私が事件化の端緒を得たことで、刑事課知能犯捜査係の係長に「お前、知能犯向いてるからやってみろよ」と言われて、初めて刑事の世界に興味を持ちました。その係長に声を掛けられるまでは、特に刑事に関心はなかったのです。

     

    板橋署で刑事課に入りたかったのですが、警察官になって一番最初の巡査部長昇任試験に合格しました。私は2005年7月14日、麻布警察署へ巡査部長として昇任配置となり、刑事になるのは2006年10月31日、麻布署刑事課知能犯捜査係(主任)まで持ち越されました。

     

    私は警察官拝命が26歳、卒業配置が27歳と他の同期の22、3歳と比べて遅かったので、実は警察学校に入校した頃から巡査部長昇任試験の問題集を消灯後に解いていました。法律の勉強をしたことが全くなかったので、最初は全く理解不能でしたが、実務経験が進むにつれて、徐々に解けるようになりました。

     

    この時の原体験が、「必要なことは自ら求めて、学ぶ」姿勢に繋がりました。2020年から独学で司法試験の受験勉強をしています。

     

    語学、スポーツ、武術、ダンス、警察、刑事事件、法律など自分が苦手な世界に飛び込んで、自分の得意を探して来たように思います。

    FAQ6 どのような経緯で発達障害の支援をしてきたのですか?

    【秘密6

    2009年から2011年、麻布署の刑事だった時、アスペルガー障害の成人男性による名誉毀損事件を捜査しました。 被害者は、発達障害に関する書籍の出版社(花風社)でした。 告訴相談の受理から裏付け捜査、強制捜査、事件送致、ほとんどの捜査を私一人で担当した事件でした。 

     

    事件を受理した当時、発達障害のことはほとんど知りませんでした。専門家への事情聴取、専門書の読み込み、裏付け捜査、被疑者や参考人の取り調べなどを通じて、徐々に専門的な知識や体験が蓄積されてきました。

     

    被疑者は起訴され、執行猶予付きの罰金刑を科されました。

     

    2013年1月31日、先ほどお話しした経緯で警察を辞職しました。縁あって、教育に関する仕事、主に塾や予備校の講師を始めました。 練馬区に住んでいるので、練馬区の学校サポーターに登録していました。

     

    2017年3月、練馬区光が丘第八小学校の副校長先生からお電話をいただき、特別支援学級の支援員を半年間やらせていただくことになりました。横浜市にある放課後等デイサービスでも1年ほど非常勤の職員をやらせていただき、理事も務めました。

     

    2017年7月7日、麻布署で発達障害の事件を担当したこと、予備校の生徒さんが上智大学に進学したことが偶然、重なり合いました。 上智大学の「メディア・対話・レトリック」という授業で1コマだけゲストスピーカーを務めました。 

     

    当時の私は講師として徐々に研修や講演の仕事を増やそうとしていました。書籍の出版を視野に入れて、都内の出版社へFAXでDMを出しました。1,000通FAXDMを出したうち、無事に送信されたのが 777通でした。2社からすぐにレスポンスをいただきました。そのうち1社が、私が担当した名誉毀損事件の被害者、花風社だったのです。 

     

    2017年8月頃、横浜の放課後等デイサービスにて、重度自閉症の男子小学生を約20日間支援しました。その時、花風社の本で学んだ身体アプローチが、そのお子さんの水遊び・排泄・噛み付き・会話能力を劇的に改善してくれました。何物にも変え難い貴重な経験でした。

     

    刑事の経験と発達支援の経験から、

    2018年1月31日には、

    『元刑事が見た発達障害 真剣に共存を考える』榎本澄雄=著(花風社)

    2018年10月23日には、

    『自傷・他害・パニックは防げますか? 二人称のアプローチで解決しよう!』廣木道心+栗本啓司+榎本澄雄=著(花風社)

    https://www.amazon.co.jp/~/e/B0798QLZ37

    が出版されました。身体知と遵法教育を提言しました。

     

    2021年12月13日、縁あって上智大学「司法福祉論」の授業で、再びゲストスピーカーを務めることになりました。

    https://www.kibiinc.co/blog/2021-12-04

  • 📺YouTubeチャンネル🕵️‍♂️

    🃏榎本澄雄「愚者の勇気」

     

    今すぐこちらからご覧ください

    👇

すべての投稿
×